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2008年05月31日

コラム:「適材適所」

夫(そ)れ物には用うる所あり、
      之(これ)を用うるに各々宜しき有り。

これは唐代の寒山(生没年不詳)の詩を集めた『寒山詩』の中に見える言葉です。

全体は以下の通りです。

夫(そ)れ物には用うる所あり、之(これ)を用うるに各々宜しき有り。
之を用うるに若し所を失わば、一欠(いっけつ)し復(ま)た一虧(いっき)す。
鑿(あな)を円くして枘(ほぞ)を方(しかく)にす、悲しい哉、空しく爾(しか)為せるのみ。
驊騮(かりゅう) 将に鼠を捕らえんとするも、跛(は)たる猫児(ねこ)に及ばざらん。

【訳】
さて物にはそれぞれ使い道があり、使うにしてもそれぞれ使い方がある。
物を使うのに使い道を間違えたなら、やりそこなって事を欠く。
円い穴に四角なほぞをはめようとしたら、悲しや無駄骨折りをするばかり。
名馬が鼠を捕ろうとしてみても、脚の不自由な猫にもかないっこない。

(入矢仙介・松村昂『禅の語録13・寒山詩』p.76~77参照)

どんな物にも使い道と使い方というものがあります。

たとえばスプーンで麪を食べようとしても、うまく麪はつかめませんし、フォークでスープを飲もうとしても、歯の間からこぼれ落ちてスープを飲むことはできません。

寒山は、このような例えとして、円い穴に四角いほぞ(木材・石材などを接合するときに、一方の材にあけた穴にはめこむため、他方の材の一端につくった突起)をはめ込もうとしてもうまく入らないし、いくら脚の速い名馬であっても、小さな鼠を捕らえるには、猫の方が優れていると言っています。

事々、適材適所というものがあって、それを踏み外すと全ての物は全く無意味なものとなります。

こんなことは冷静に考えれば当たり前のことでしょう。

しかしその当たり前のことを、見失って生きてはいないでしょうか?

投稿者 sougen : 19:39 | コメント (0)

2008年05月23日

コラム:「吉凶」

吉凶は、人によりて日によらず。

これは吉田兼好(1283~1350)の『徒然草』の中の言葉です。

この言葉には前段があります。

「〈吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なり〉といえり。吉凶は人によりて日によらず」(吉日だからといって、何でも良い結果になるという訳ではなく、悪いことをすれば、かならず悪い結果となる。反対に凶の日に善いことをしても、善い結果となるものだ。吉凶というものは、人の行動によるものであって、決して日によるものではない)。

さて、日本人は、古来、吉凶というものを非常に気にします。今でも、「結婚式は大安に」とか、「お葬式は友引はダメだ」とかが普通に語られ、むしろそれは常識人の嗜みと言っても良い程に浸透しています。

しかし、本当に結婚式は大安でなければならないのでしょうか?葬儀は友引に行ってはいけないのでしょうか?


吉田兼好の言葉は非常に合理的なものです。

丙午に生まれた女性は禍を呼ぶなどという迷信もありますが、丙午に産まれる子供を妊娠した場合、その子を産んではいけないのでしょうか?そんな馬鹿なことはありません。けれど、このような迷信を気にしてか、丙午の年には出生率は格段に減少するようです。

また、仏事に関するものでは、お逮夜が三月にまたがる場合は三十五日に満中陰を行わねばならない、というものもあります。この迷信の根拠はあまりはっきりとはしないようですが、現在よく言われるのは、「不幸が身につく」からというものです。

しかし、月末に亡くなった方の場合、必ず逮夜は三月にまたがります。亡くなった日が月初と月末との違いだけで、不幸が遺族の身につく、身につかないなんてことがあるでしょうか?何ともおかしなことです。

本来、吉凶というのは、天に任せるものではなくて、自分の行動に原因のあることの方が多いのではないでしょうか?

悪い行為をした人に悪い結果が訪れるのは当然のことです。またその反対も同様です。吉凶を日のせいにするなど、何とも無責任なことです。

仏滅に結婚すれば、誰もが不幸になるのでしょうか?そんなことはありませんね。結婚生活が良いものになるか、悪いものになるかは、あくまで夫婦二人の努力次第です。大安に結婚したって、離婚する人は山程います。

こんなことは当たり前のことでしょう。物事は本人の努力次第でいくらでも好転できるはずです。

大切なのは、自分が主体的に、正しく生きているかどうかということです。正しく生きている人にとっては、大安も仏滅も関係はないでしょう。

迷信なんかに振り回される心の弱さが問題なのです。


投稿者 sougen : 19:12 | コメント (0)

2008年05月17日

コラム:「他の財を数える」

お金1.jpg

日夜、他の宝を数えて
     自らは半銭の分なし。

これは、曹洞宗の道元禅師が著した、『学道用心集』の中の言葉です。

他人の財産をいくら数え上げたとしても、それによって自分の財産が増すことはない。そんな行為は虚しく無益なものだ、という意味です。

さて、人は往々にして他人の懐具合が気になるものです。


「あの人はどうしてあんなに裕福な暮らしをしているのか」とか、「おのお宅はあんなに立派だけれど、一体、お給料はどれくらいなのか」などという想像や、うわさ話の一つもした経験はありませんか?

ひどいものになると、「あの人はあんなに立派な家に住んでいるのだから、きっとろくな事をしていない」などという人もいます。そんな思いや言葉は、なんとも悪意に満ちたものです。

しかし、そんな風に他人の財産を気にしたところで、自分の財産が増える訳でもなく、暮らしが良くなる訳でもありません。なんとも虚しく無益なことです。

そんなことを考えている暇があれば、仕事に励んだ方が、ずっと自分にとって有益でしょう。学問に励んだ方が、余程身になります。

またこうも言えます。

口先で、いくら立派な古人の名句・名言を並び立てたとしても、その人の行いがその言葉に適うものでなければ、何の意味もありません。他人の褌で相撲をとっているだけのことです。この場合、「他の宝」は、「古人の名句」ということになります。

学道でも同じことです。山程の知識を頭の中に詰め込んだとしても、その知識を本当に自分の生活の中で生かすことができなければ、宝の持ち腐れです。

問題は、その人が、如何に自分の心を、人格を磨こうと努力するかどうかということです。それこそが、自分の財産を増す、ということなのです。もっと、自分自身に目を向けるべきです。

いい加減、他人の懐を気にするのはやめたらどうですか?

それだけで、きっと心が軽くなるはずです。

投稿者 sougen : 19:19 | コメント (0)

2008年05月10日

コラム:主人公に生きる

随処2.jpg

随処に主と作れば
   立処、皆な真なり

これは、中国の唐末の頃に活躍した、臨済義玄(?~866)の言葉です。

たとえ何処にいたとしても、自分が「主人公」でいることができれば、自分の立っているその場所が真実となる、という意味です。

では「主人公」とは何でしょうか?

「主人公」とは、一般に劇や映画の中心人物を言いますが、ここでも同じような意味でしょう。ただしここでの「劇」とは、人生のことです。あなたはあなたの人生の「主人公」になり得ていますか?

時間に追われて自分を見失っていませんか?お金の奴隷になっていませんか?はたまた、自尊心や虚栄心に振り回されていませんか?

こうした生き方では、とても人生の「主人公」になっているとは言えません。あなたが本当にあなたの人生を生ききってこそ、本当の「主人公」と言えるのです。

臨済はこう言います。
「君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ」(岩波文庫『臨済録』p.51)。

どんな場所にいても、「自分」を見失わなければ、あなたはその場の「主人公」です。

ではどうすれば良いのでしょう?それは、その場その場のことに集中して生きて行くこと、その状況と一つになり切って余計なことを思わないことです。

仕事をしている時は、仕事になり切る、家事をしている時は家事になり切る、夫なら夫として、妻なら妻としてその本分を尽くして生きて行くこと。その時、あなたは「主人公」に生きていると言えましょう。

あらゆる状況を無心に受けいれ、その中で快活に生きていくことができれば本当の自由です。

江戸時代の良寛さんは、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがる妙法にて候」(災難に逢えば、逃げだそうとせずに災難に立ち向かいなさい。死ぬ時にはジタバタせずに死ねばよろしい。これこそが災難から逃れる妙法なのだ)と言いました。

これこそまさしく「随処に主となる」生き方です。あれこれ考えても仕方がありません。「今」を生ききれば、自然と「立処皆な真」となることができる筈です。

投稿者 sougen : 17:03 | コメント (0)

2008年05月05日

その他の情報:西村惠信先生と行く“禅と文化”の旅

当山の法話会に講師としてお越し頂いている、禅文化研究所所長・西村惠信先生と一緒に、名刹や美術館等を訪れ、禅と文化に触れる一日バス旅行を募集しています。

日時:平成20年6月11日(水)9:00~ 日帰り

集合場所 :R京都駅八条口(南側)1階 観光バスプール脇コンコース(通路)

集合時間:午前8時45分(同時に受付をはじめます)

参加費:お一人様 16,500円(税込)

申込み締め切り:5月15日

コース:
(09:00)京都駅八条口==(09:45)霊鑑寺拝観==(10:35)光雲寺拝観&所長講演== (12:40)六盛(昼食)==(13:50)細見美術館==(15:30)山田松香木店==(17:30)京都駅
*時間はおおよその予定です。交通事情その他により変更となる場合があります。

興味のある方は、以下を参照の上、お申し込み下さい。

西村惠信所長と行く“禅と文化”の旅

投稿者 sougen : 19:52 | コメント (0)

2008年05月04日

コラム:「過ち」

過ちて改めざる、是を過ちと謂う

これは『論語』の中の言葉です。

人は誰でも失敗をするものです。完璧な人間など何処にもいないでしょう。

大切なのは、自らの失敗に対する対応です。失敗は失敗と素直に求め、それを受けいれた上で、改める。そうして二度と同じ失敗をしないように心掛ける。これが正しい態度と言えましょう。

反対に、自らの失敗を決して認めようとはせず、体面を取り繕ったり、弁解をしたり、ひどい時には他人のせいにして済ましてしまう。こういう態度では、人は何も変わりません。きっと同じ間違いを何度もくり返すことでしょう。これが本当の過ちというものです。

自らの失敗を認めるということは、言うのは簡単ですが、実行に移すのはなかなか難しいものです。ましてやプライドが高く、我が強い人にとっては尚更でしょう。

常に自らの行動を点検し、悪い点があれば深く反省をする。そうしたことをくり返すうちに、人は自然と「素直な自分」のままで生きていくことが出来るでしょう。

投稿者 sougen : 17:28 | コメント (0)