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コラム(10):お盆

8月はお盆の月です。
お盆の正式な呼び方は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。
お釈迦さまの弟子の中で特に優秀な弟子十人を「釈迦十大弟子」といいますが、その中に神通第一といわれる目連尊者といわれる方がいました。 「神通」とは、いろいろなものを見通せる力のことです。その能力に秀でた方のことを「神通第一」というのです。
その目連尊者が、ある時、亡くなった母親のことが気にかかり、神通力でその往く先をうかがったところ、なんと母親は地獄で餓鬼になって苦しんでいました。
餓鬼とは悪業の報いとして飢えに苦しむ鬼のことです。その姿はやせ細って喉が細く針の孔のようで飲食が出来ないうえに物を食べようとすると、その食べ物は口元にくるとたちまちに燃え上がってしまうのです。
目連は手を差し伸べて母親をその火の苦しみから救おうとしますが、かえって火に油を注ぐように火の勢いが強くなり、母親を余計に苦しめてしまうのでした。
目連は思いあまって師であるお釈迦さまに母親を救う方法を乞いました。そうするとお釈迦様は深く悲しまれ、目連にこう指示しました。
「お前の母親を助けるには多くのお坊さんの力を借りなければならない。お坊さんの修行期間の終わる7月15日に、『百味の飲食五薬』を供養すれば、お母さんを助けることが出来よう。」
この話は『仏説盂蘭盆経』という経典に出ているお話です。このお話によってお盆の行事が行われるようになりました。日本では推古天皇の時代606年に寺ごとに斎会を設けたのがはじまりといわれています。
では何故目連の母親は地獄に堕ちて餓鬼の苦しみを受けるようになったのでしょうか?
目連の母親は資産家で、沢山の資産をもっていました。目連は、出家するにあたって、全ての財産を貧しい者に施すように母を諭しましたが、母親は我が子である目連にその財産を残すために目連の諭しに耳を貸しませんでした。
この行為は母の愛から生じた行為ではありますが、母の目蓮への愛は「溺愛」と呼ぶべき行為でもあるのです。この悪業によって、母親は餓鬼道に堕ちたのです。自らへの愛が母を地獄へ陥れる結果となったのです。目蓮の苦しみは如何ばかりでありましょう。
(我々の心が仏であること)
私たちは、毎日何気なく過ごし、少しも他人の世話になっていない、迷惑をかけていないと思いがちです。しかし現在の私がここにいるのは、おびただしい数の父母、両親があっての結果で、その一つが欠けても今ここにはいないのです。まさしくご先祖があってこそ今の私がいるのです。親や先祖は、かわいい我が子のために、目連の母親のような罪を犯していたかもしれません。人間はなにかしらの罪を犯しながら生きているのです。
そのような親や先祖の苦労や苦しみを忘れて生きていることも又、悪業の一つといえないでしょうか。その時に人間は知らず知らずの内に地獄にあるのです。そう考えると恐ろしくなります。お盆に供養するのはご先祖のためにあるだけではなく、今、地獄にいるかもしれない自分を振り返るためにもあるのです。
江戸時代に五百年来不出と言われる名僧であった白隠和尚というお坊さんがいました。その方の所にある武士がやってきて地獄と極楽の在処を尋ねました。すると白隠和尚は、その武士にむかって、
「そんなことを心配するなんて、なんというヘナチョコ侍じゃ。」
と一喝しました。その武士は、それを聞いてカッとして腰の刀を抜き白隠和尚に向かって刀を振り上げました。すると白隠和尚は、
「それ、そこが地獄じゃ。」
はっと気付いた武士は自分の非礼に青ざめ、ひれふして、
「和尚さま、どうか私の非礼をお許し下さい。」
といって詫びました。すると白隠和尚は、
「それ、そこが極楽じゃ。」
と言ったそうです。
地獄はあの世にあるのではなく、自分の心の中にもあるのです。ひょっとして、あなたも地獄の中にいながら気付かずにいるのではないですか。他人を憎む心、羨む心、過大な自尊心、全て地獄への入り口なのです。地獄への入り口は時と場所を選ばず、いつでもポッカリと口を開けて待っているのです。お気を付け下さい。
では極楽への入り口は何処にあるのでしょうか?自らの言動を反省する心、これが極楽への入り口なのです。極楽への入り口もまた時と場所を選ばすにあなたを招き入れるのです。
あなたの家にあるお仏壇の中で微笑んでいる仏様の姿、これがあなたの本当の心なのです。皆さんの心の中全てに仏様がいらっしゃるのです。それに気付いて下さい。もし、分からなければ、心を落ち着けて、お仏壇の中の仏様を静かにご覧になり、仏様に向かって静かに手を合わせて下さい。そうすれば心が爽やかになるのに気付きませんか。それがあなたの「仏の心」なのです。
しかし、普段我々は様々な妄想に引きずられて「仏の心」を見失っているのです。それこそが地獄なのです。
お盆のお参りにまいりますのは、皆さんのご家族のどなたかが亡くなられ、そのお供養のためです。その方はご両親かも知れませんし、ご兄弟かもしれませんし、また、ご主人や奥さんかもしれません。ましてや可愛い我が子ともなれば、悲しみもひとしおでしょう。心中お察しいたします。
仏教では、四十九日が過ぎるまでの死者を「霊」といい、四十九日が過ぎた、成仏をした死者を「仏」と呼びます。
では、その亡くなられたご家族は今一体どこにいらっしゃいますか?決して遠く離れた黄泉の国にいるのではありません。皆さんが愛された今は亡きご家族も、全てあなたの心の中で安らいでおられるのです。
あなたが怒りにうち震える時、あなたの今は亡きご家族はその怒りの劫火に包まれているのです。あなたが貪りの心にとらわれた時、あなたの愛したご家族はその貪りのために餓鬼となって空腹にのたうち回っているです。恐ろしいことです。そしてそのことに気付くこと、これが成仏への道なのです。
『仏説盂蘭盆経』には、目蓮が僧侶に供養をすることによって、苦しみが除かれた様子を次のように述べています。
「その時、目蓮やその他多くのこの法要に参加している僧侶達の皆が大いに歓喜し、目蓮の嘆き苦しむ声は忽然として除かれた。そして、同時に目蓮の母も、無量の苦しみから脱することが出来たのである。」
目蓮が自らの存在そのものが母を悪業に陥れたことに気付き、そして、その迷いと苦しみから自らが脱した時、同時に母も地獄の苦しみから逃れることが出来たのです。
お盆とは本来このような意味なのです。
ご先祖の恩に対して感謝し、自分の行いを振り返るのがお盆です。静かに手を合わせて、あの世にいるご先祖さまのご冥福を祈ると同時に、自分の心の中のご先祖さまの恩にも感謝をしましょう。そうすることによって、お亡くなりになられたあの人が、心の中で微笑んでおられるのにお気付きになるでしょう。
投稿者 sougen : 2006年07月31日 22:59
