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2006年05月23日

コラム(8):達磨と達摩

②改修2006.5.20 018.jpg

禅宗の開祖は、菩提達磨(ぼだいだるま)大師です。

「菩提」とは「悟り」、「達磨」とは「教え」という意味であり、達磨様はフルネームで「悟りの教え」という有難い意味を持つことになる。

では達磨様はどんな人であったのか?達磨に関する記述として最古のものである『洛陽伽藍記』によれば次の通りである。

「その頃、西域の沙門で菩提達磨というものがいた。ペルシャから来た外国人である。はるかな辺境の果てから我国(中国)にやって来て、永寧寺の塔の金盤が日に輝き、屋根の上の宝鐸が風に揺られて鳴るのを見て、〈私は150歳であり、これまで諸国を漫遊して様々な塔を見たが、これ程に美しい塔は見たことが無い〉と言い、口に〈南無〉と唱え合掌すること連日であった」。

『洛陽伽藍記』は寺院の由来を記すことを目的とした書物であるので、そこに見える達磨に関する記述はつとめて簡潔である。しかし、ここで言う達磨が、禅宗の開祖としての達磨かどうか定かではない。

達磨の伝記がまとまって見えるのは『続高僧伝』の「菩提達摩」章である。注意すべきは、ここでは、現在一般に通用している「達磨」では無く「達摩」と表記されている点である。

しかし、『続高僧伝』の記述は、達摩の弟子であった曇林による、『二入四行論』の序文によっていたことが、本書が敦煌の莫高窟から発見されたことで明らかとなった。そこに見える達摩の伝記は以下の通りである。

「達摩は南天竺国(南インド)の第三王子であり、幼い頃より非常に聡明であり、出家して修行に励み、真理に通暁していた。海外の国々における仏教の衰えを嘆き、はるかに海山を越え、中国にやって来た。しかし、古い教えにとらわれた人々は達摩の新しい教えを悪し様に非難し、素直な人々は達摩の教えに心酔した。達摩には道育と慧可という二人の弟子があり、彼らに四つの実践の仕方を教えた。それはつまるところ、安心の法であり、その安心の法とは〈壁観〉というものであった」。

この記述は達摩の伝記としては最も古い。故に現在では最も信頼に足るものとされる。

一体、ダルマに関する古い記述は「達摩」と表記し、「達磨」とするものはない。現在の「達磨」で固定されるようになったのは、遙かに500年後、禅宗教団が確立した後のことである。

『景徳伝燈録』という、禅宗の歴史を記した書はその代表である。そこでの達磨の伝記の概略は以下の通りである。

「南インドより海路はるばる中国に来て、梁の武帝という皇帝と問答を繰返し、武帝の学問仏教を嫌って華北に去って嵩山少林寺に入って独り黙々と坐禅に励んだ。その時、慧可という者がやって来て片一方の腕を斬って達磨に指しだしてその誠意を示したので、遂に達磨は弟子とした。
達磨の教えは古い考えにとらわれた人々から非難を受け、毒を盛られること六度であったが、吐き出して難を逃れた。しかし最後に達磨は、慧可という優れた弟子を得たことに満足し、遂にその毒を吐き出さず、自ら死を選んだ。それは西暦495年10月5日のことであった。達磨の遺骸は熊耳山に葬られた」。

こうして達磨は亡くなった。しかし後日譚がある。同じく『伝燈録』を見てみたい。

「達磨が亡くなってから、熊耳山から遠く離れた葱嶺で、宋雲という人物が達磨と出逢った。その時達磨は片足には靴を履いていたが、もう片方の足は素足であった。宋雲が疑って達磨の墓を掘り返した所、その棺の中には一隻の靴が転がっていただけだった。これによって達磨が聖人であったことを国を挙げて知ったのである」。

これは明らかに伝説である。ダルマは「達摩」として歴史書に登場し、この時期に至って「達磨」となって伝説化されることになった。

しかし、このような伝説はいわばまだ序の口である。

西宮市役所のある「六湛寺町」の町名のいわれとなった廃寺寺院、六湛寺の開山、虎関師錬(こかんしれん・1278-1346)が著した、日本最初の仏教史書『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)に、達磨に関する次のような逸話を載せる。

「菩提達磨は南インドの第三王子である。…我が国の推古21年(613)、達磨は日本へやって来た。推古天皇は聖徳太子に政治を任せていた。12月1日、太子は大和の片岡山を通り過ぎた。その時、達磨は乞食の姿となり、うらぶれた格好で道端で横になっていた。しかしその眼は鋭い光を発し、身体からは異香が漂っていた。太子は怪しんでその名を尋ねるも達磨は答えなかった。仕方なく太子は和歌を作って達磨に問いかけると、達磨はすぐに和歌を以てこれに答えた。太子は飲料・食料を与え、衣を脱いで、〈よく寝なさい〉と言って与えた。こうして太子は宮殿に帰ったものの、気になって使者を発して達磨を探させるように言った。戻った使者は〈あの乞食は既に死んでおります〉と答えた。太子は深く悲しみ、その場所に行って懇ろに達磨を葬った。数日たって、太子は侍者にこう言った、〈あの乞食はきっと聖人に違いない〉と。使者を出して棺桶を開いてみると、太子が与えた衣が一枚棺の上にあっただけでもぬけの殻だった。(以下略)」。

奈良県王寺には、現在も「片岡山達磨寺」という、この逸話に因んだ立派な禅宗寺院が残されている。

「達磨さん」と聞くと親しみ深い。しかし、真実の達摩に関しては不明な点が多い。「達摩」が禅宗の開祖として、後世立派な伝記と共に沢山の伝説の衣を着せられて「達磨」となった。

さらに日本にやって来た達磨は、聖徳太子と邂逅を果たし、やがて親しみ深い「達磨さん」として真っ赤に塗られて手足が無くなり、眼も無くなって「福ダルマ」となった。

さて、今、『ダビンチコード』という小説と映画をめぐって、キリストに子供がいたとかいないとかで侃々諤々である。キリストに子供がいようがいまいが我々が知るキリスト様に何ら変わりは無い。

「達摩」は、伝説化されて「達磨」となり、やがて手足を無くされ、眼も無くなって、真っ赤に塗られても、政治家に選挙で勝ったと墨で目を書きこまれても、一向に気にしない。


そちらの方が、なんだか清々しくはないだろうか?

投稿者 sougen : 15:10 | コメント (0)

2006年05月22日

本堂改修:5月20日 「竣工」

②改修2006.5.20 008.jpg 昨年10月からの改修工事が完了しました。

②改修2006.5.20 009.jpg 正面

②改修2006.5.20 010.jpg 正面

②改修2006.5.20 011.jpg 内部

②改修2006.5.20 012.jpg 内部から外を見る

②改修2006.5.20 029.jpg 夜の内部  

②改修2006.5.20 026.jpg スポットに照らし出される。

今回はスポットライトを設置しました。講演会や演芸に利用できます。
夜はこのように幽玄に照らし出します。

②改修2006.5.20 031.jpg 浮かび上がるご本尊

②改修2006.5.20 022.jpg 浮かび上がる達磨像

②改修2006.5.20 024.jpg 

 

投稿者 sougen : 15:19

本堂改修:4月② ー竣工間近ー

②改修2006.4.7 011.jpg 工事もあと少しです。

左官工事も終了し、建具も入りました。これは畳の搬入の写真です。畳はまだ新しいので以前のままです。

②改修2006.4.7 012.jpg

②改修2006.4.7 013.jpg


お仏壇の「浜屋」さんに預かって頂いていた仏具も帰ってきました。浜屋さんからもお手伝いに数人来て頂き、一日がかりで仏具の据え付けを行ないました。


投稿者 sougen : 10:19